印鑑の歴史
起源
印鑑は、今から5000年以上前のメソポアミア地方に、その起源があるとされています。当時使われていた印鑑は、円筒形の外周部分に絵や文字を刻み、これを粘土板の上に転がして押印するというものでした。
印鑑を持っていたのは有力者たちで、それぞれが、自分独自の印鑑に紐を通して、首に掛け、必要に応じて使用していたようです。材質は石や宝石でできていました。
今で言うパワーストーンのような材質のものもあったでしょう。 翡翠や黒曜石のパワーストーン印鑑などは今でもちょっとした高級品です。
当時の印鑑も認証の道具の一つとして使われていたようです。紀元前3000年頃の古代エジプトでは、ヒエログリフが刻印されたスカラベ型印章が用いられてました。それ以来、認証、封印、所有権の証明、権力の象徴などの目的で広く用いられていました。古代メソポタミアで生まれた印鑑は、その後、世界各地に広まり、東は中国経て、日本へ、西はギリシア、エジプト、ローマを経て欧州各地に影響を与えました。しかし、欧州各国では、印鑑を押すという制度も習慣もほとんど残されていません。
諸外国、特に文明が早くから生まれた土地ではパワーストーンブレスレットなども盛んに作られていたようです。いまでこそ簡単に手に入るようになっているパワーストーンブレスレットも、当時は王族・貴族だけの特権だったのでしょうね。時代を問わないパワーストーンブレスレットの魅力が伺えます。
日本では
日本で最古の印鑑は1784年に北九州で発見された「漢倭奴国王」と刻まれた金印です。律令制度下で政府や地方の支配者の公の印として使われ始め、平安・鎌倉時代になって、個人の印として印鑑を押す習慣が定着したようです。では公文書の一面に公印が押されていたましたが次第に簡略化されるようになり、中世に至り花押に取って代わられました。しかしながら、近世以降次第に復活してゆき。明治になって、公の印はすべて、法律の規定に従って、管理・使用されることになり、個人の印は印鑑登録制度が導入され現在に至っています。
金印
国古代の歴史書『後漢書』の東夷伝倭人の条のなかに「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。」とあります。
建武中元二年は、西暦57年、倭国は日本、奴は博多一帯をさす地名です。この記事によって、光武帝から倭奴国王に金印が贈られている事実は学者などには知られていました。が、その金印がどんなものかはわかりませんでした。
天明4年(1784年)2月23日。北九州、博多の対岸に位置する小さな島、志賀島の南側にある叶の崎で、農夫の甚平衛さんが働いていたところ、田んぼの境の溝がつまって水はけが悪くなったので、直そうと土を掘り返していると、石の下から金属の塊が出てきたといいます。たいして気にもせずに持って帰り、よく洗うと金色に底光りする見なれない四角なものになりました。正方形の一面には文字らしい紋様が刻んであります。なんだかわからず、しばらく家の中に放り出したままにしておきました。後に、日本の歴史を書きかえるほどの重要な、1700年間も地中に埋もれ、眠っていた金印だとはつゆ知らずに・・・。
甚平衛さんの掘り出した金色の光る物は近所の評判になり、いつか黒田藩おかかえの漢学者の耳に入ります。専門家の目によって金印は調べられ、文字が読まれて『後漢書』に記載のある光武帝からの印であると判定が下され、藩主黒田家に献上されたのです。
金印は封泥に押すために作られた品なので陰刻であり、しかも刻みが深くなっているのが特徴です。
陰刻とは、普通の印鑑のように、文字を残し余白の部分を掘り下げるのではなく、余白を残して、文字の部分だけを彫る方法です。
この金印は、23.5mmの寸法の角型で、漢代の印制とぴったり符号します。また、後漢時代の初期における典型的な作印法で製作されています。篆書体(漢体)の書体、文字の配文法の面からも疑いもなく本物と考えてよいでしょう。蛇紐(蛇の姿をした把手)の頭上から印面までの高さが22.1mm。印面の厚み9mm強。これが金印のすべてです
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最終更新日:2018/3/2